2005年12月10日

インタビュー:趙豊邦

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 今年、見事に完全復活を飾った趙豐邦。1991、2000年と二度の世界チャンピオン。台湾の英雄が新聞のインタビューに答えるこの記事は、11月にネット上に載ったものを抄訳したものです。

趙豊邦「老け込むには早すぎる」

 もし今年のスポーツ界で復活賞を設けるならば、該当するのは「Cool Killer(クールフェイス・キラー)」趙豊邦をおいて他にはない。二年間あまりのスランプを経て、彼は今年のチャレンジオブチャンピオンズで三度目の優勝を飾り、さらにブルネイ国際招待でも優勝。見事に台湾プロツアーランキング一位に返り咲いた。彼が挫折にもめげない強い性格であることを、彼のファンに証明したのである。
夜の九時過ぎ、趙豊邦は一日の仕事を終えて車で帰宅する。彼は今、高雄F1撞球館という店の専属プロだが、以前彼が最も勢いのあった頃には、6件ものビリヤード場の共同経営者だったこともある。 
練習、試合、仕事。趙豊邦は三十年近くも同じ日々を繰り返してきた。しかしここ数年、特に2002年と2003年の人生最大のスランプを経験してからは、彼は一日一日を大切に過ごそうとしている。あの時の彼はビリヤードにおいての成績も良くなかったし、経済的にも破産寸前まで追い込まれていた。体も悲鳴を上げていた。
「私は人生で躓くなど考えたこともありませんでした。ましてやあんなに悲惨な状態になるとは……」「私は自分に言い聞かせてきました。子供の頃はあんなに苦しかった生活を耐えてきたんだから、今の窮状に悩むことはないと。厳しい状況に直面していた時、むしろ私は楽観的でした。強くなって、必ずもう一度立ち直してみせると」
彼には三人の子供がいる。一番上が中三で、一番下が小4。趙豊邦はあの二年間にほとんど収入がなかった。借金もした。いろんな面で節約しなければならなかったから、子供が外食したいと言っても彼は許さなかった。彼は生活が苦しいことを決して子供には話さなかったから、子供たちはそううことが理解出来る年齢になるまでずっと自分のお父さんはケチな人だと思っていたそうだ。
借金自体が趙豊邦にダメージを与える事はなかった。しかし彼自身が最も心配していたのは自分の体のことだった。「もし私が倒れたら、立ち直るチャンスもなくなってしまうからです」
生活パターンを変え、甲状腺機能を改善するために薬を飲んで練習に励んだ日々。2004年から徐々に調子も良くなり、アジアでの大会やプロツアーでも良い結果が出るようになってきた。そして今年、チャレンジオブチャンピオンズで5万ドル、ブルネイ国際招待では1万ドルの優勝賞金を勝ち取ることが出来た。これらの優勝で、今まで収入がなかった時のマイナスを、ようやくチャラにする事が出来たのだ。
「私にとって、プロツアーランキング1位に返り咲くというのが最も励ましになりました。長い間1位になったことないからです。台湾ツアーで戦うのは海外の試合で戦うよりやりにくいと感じています。若い人は技術面では私に勝てないかもしれませんが、私が年をとった分、逆にプレシャーを感じてしまうからです。昔のように簡単には勝てなくなりました。にもかかわらず今年1位という事は、私がそれなりに努力したからだと思うのです」
先々月(9月)、趙豊邦は38歳の誕生日を迎えた。例年と違い、長いスランプから脱出できた開放感からか、すべてが光に向かって進んでいる感じがしたという。子供たちが誕生日プレゼントを贈るつもりでいたが、彼は断ったそうだ。子供たちに節約して欲しかったし、彼はすでに優勝という大きなプレゼントを自ら手に入れていたからだ。
「苦しい時期は過ぎました。借金もほとんど返済できました。でも私は努力をし続けるつもりです。人生そのものが試合であり、それはまだまだ終わっていませんから」

Chao
先月の全日本選手権での趙豐邦




posted by mathilda at 07:39| 新潟 ☔| インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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